カニ日記

日記のような記録

なぜしずかちゃんはお風呂が好きか将来君とビールを飲みながら語り合いたい

日記がちゃんと書けなかった週。いつも習慣として朝、前日の日記を書くが今週は何となく手がつかなかった。そもそも日記を書くのは義務でないし誰かに求められているわけではない。サイの成長とそれに関わる私の生活があまりにも面白いので記録しておきたいと思って始めただけだ。最初の日記にも書いたが理想は武田百合子さんの『富士日記』。作家である夫・武田泰淳との富士山での暮らしを綴ったものだが、初めて読んだ時、毎日休むことなくこんなに細かく記録された日記があるのかと驚いた。何を食べたとか、どこへ行ってどんな人に会って何を感じたとか生々しいほど仔細に記されていて自分がそこで一緒に生活しているような気さえして、日記の世界に引き込まれるように熱心に読んだ。『犬が星見た』というロシア旅行記や他の随筆も入手できるものはほぼ全て読んだが文体や瑞々しい表現は一貫している。いつだったか、武田百合子の文章が好きだとある本好きな人に話した時、「あの人の文章はちょっと怖いよね、読んでいると怖くなる」と言われたことがある。それも分かるなと思った。感情表現が繊細すぎて時に怖くて震えるが、呼吸するように継続された記録は雪の結晶のように美しい。だからそういう記録をしてみたいと思った。私の日記を読んでくれている(いた)友達に「事細かすぎて滅入る」と言われた時やったーと思った。

あと、町田康さんの日記(http://www.machidakou.com/diary/ )も好きだ。百合子さんのように細かくないが、繰り返し同じ表現方法で毎日休むことなく淡々と記されている。続けて読んでいると暗号のような町田さんの造語が何を指しているか理解できて面白い。小説の時とは違い、続けて読んでいる人にだけ分かる造語や言葉の遊びが町田さんらしくてわくわくする。百合子さんや町田さんのように毎日休みなく、がどうしてもできずに途絶えてしまうこともあるが日記は可能であれば死ぬまで永久に続けたいと思っている。やれと言われると途端に無理になるが、誰にも求められていないことを続けるのが私は好きだ。


前置きが長くなったが、以下、今週したことや考えたことの記録。2月に行った汝、我が民に非ズのライブのMCで町田さんが「印象的だったり良かった思い出はわざわざ記録しなくてもちゃんと頭の中に残り続ける」と言われていてそれもそうだなと思っている。書いていることが全てではないし、逆に記録することがどうでもいいことという訳でもない。

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サイはドラえもんの漫画に興味津々。コンビニで買った週刊誌のようなドラえもんの漫画雑誌(映画の原作を集めたもの)を放置していたら、ドラえもんを最近分かってきたサイが勝手にめくって読んでいた。漫画にはまだ興味を示さないと思っていたので意外だった。藤子・F・不二雄先生の画力ゆえか。台詞を読むよう指示される。漫画の読み聞かせは今がどのコマか指ささないといけないので絵本よりずっと難しい。しずかちゃん(なぜかいつもドラミちゃんと呼ぶ)のシャワーシーンを気にして、「なんではだかなの?」と聞かれた。「お風呂に入っているからだよ」「なんで?」「しずかちゃんはお風呂が好きなんだよ」「なんで?」「え、なんでだろう…気持ちいいからかな」しずかちゃんがなぜ入浴が好きかとは、ドラえもんにおいて極めて重要かつ難しい論題だ。サイは毎日このコマばかり見て、同じ問いを一日十回は繰り返す。気に入りすぎて、白い紙を持って来てこれに模写しろと指示された。描くと切り抜くよう言われハサミで切って渡すと愛おしそうに裸のしずかちゃんを手に持っていた。私が最近、未読の藤子作品を読みたいと思って買った『エスパー麻美』を開いても裸のシーンを探し、冒頭の、麻美のお父さんが裸の麻美をモデルに描いた絵を見つけて大喜びしていた。裸とかおっぱいとか相当好きらしい。しずかちゃんと麻美の胸や裸の違いについて分析までしていたので笑ってしまった。もしお父さんが描いた絵のとおりだとすると、麻美ちゃんは年齢の割に豊満な体つきだ。エロを全面に押し出した漫画は少し苦手(浅野いにお『うみべの女の子』は話が好きなのに性描写が生々しすぎて挫折した)だが、手塚作品や藤子作品のエロ要素は私も好きだ。小学校くらいの時家にあった『クレヨンしんちゃん』や公共図書館で読んだ『火の鳥』で裸を見つけては興奮していた記憶が蘇る。それにしてもサイはまだ3歳なのにすごいなと思う。


サイとまたTSUTAYAに行き『それゆけ!アンパンマン シャボン玉のプルン』(2007年公開)を借りて観た。シャボン玉がモチーフなのとプルン(声は水野真紀)が可愛かった。プルンはとにかく自己評価が低いヒロインで早くアンパンマンを助けてやれよという苛立ちも含め私自身と重ねて観てしまっていたので最後は少し感動した。サイも気に入って、この場面でこれがこの色になるとか細かく記憶して後で教えてくれた。ヒロインに感情移入できなかった『妖精リンリンのひみつ』(2008年)より面白かったが、映画版アンパンマンは脚本が「ヒロイン登場、性格的な理由でヒロイン孤立、バイキンマンアンパンマンを倒すために最強メカを発明、街や自然を破壊、アンパンマン立ち向かうが倒れる、仲間もやられる、メカが故障してバイキンマンの手に負えなくなり暴走(責任ない悪として描かれるのでここはもしかしたら重要、)、意を決したヒロインが力を発揮する、メカで何か(花や玩具など)に変えられたキャラクター達が力を合わせてバレーボールのトスのようにアンパンマンの顔を運ぶ、アンパンマン復活、バイキンマンはメカと共にやられる、再び訪れる平和、ヒロインとの別れ」のパターンばかりで、それから脱却してもいいのではとおせっかいながら思う。『いのちの星のドーリィ』はパターンを踏襲しつつも「生きることとは何か」という投げかけがあり描写もヒロインも異質で面白かった。どうせ子ども向けと高を括らず、制作側は手を抜かずドーリィみたいな新作を本気で作って欲しい。


サイがお風呂のお湯でカプチーノを作ってくれた。アンパンマンに出てきたカッパチーノちゃんの影響。アンパンマンには笹の葉寿司や土瓶蒸しなど古典的な食べ物からマカロンシナモンロールなど新しい(?)スイーツまで幅広いキャラクターが登場する。河童に似たカッパチーノちゃんは「~ノ」を語尾につけた話し方をするので、サイも真似して「ありがとーのー」とたまに言う。保育園でもブロック遊びやままごとが好きらしいし最近料理も手伝いたがる(卵を割るのが特に好き、見ていて冷や冷やするがやりたいと言うのでやらせる)ので、何か創作したり組み立てるのが好きらしい。対して絵はあまり好きでないよう。私が絵を描くのを眺めるのが好きで「◯◯かいて」とよく言われる。私も小さい頃友達のお母さんが絵がとても上手で、線を描く手の動きや絵が出来上がる光景を眺めるのが好きだったなとふと思い出す。


最近服を買ってくれる(買ったあげた)とサイはよく言う。ある時「おかあちゃんにおようふくかってあげたよ」と急に小声で耳打ちしてきて、「え、どんな服?」「ピンクだよ」と買い物完了した妄想までしていた。何もなくてもその気持ちと言葉だけで嬉しい。ピンクの洋服はサイの中で憧れの服なのかもしれない。幼児雑誌にプリキュアのコスチュームが載っていて欲しがっていた。どの色(プリキュア)の衣装がいいのか聞いたらピンクだった。推しは黄色だが身に纏いたいのはピンクらしい。その感覚、何となく分かる気がする。


サイのバナナブームは終焉した模様。食べるか聞いてもあまり食べたがらなくなった。子どもの執着(特に食べ物)は一時のブームだとある時から気が付いたので、そればかり食べたいとせがまれると以前は戸惑っていたが最近はどうせいつか飽きるだろうと予想し、健康に影響ない範囲で自由に好きなだけ食べさせている。友人の子が同じようにレーズンパンにはまっているけどそればかり食べさせていいものか悩むと言っていたが、いいのではないかと私は思う。好き嫌いも同様で、嫌いなものを食べるよう促しはするが泣かせて嗚咽させながら強引に食べさせるのではなく、どうしても嫌なら少し食べたところで残してもいいことにして、そうするといつの間にか食べられるようになっていることもある。私は幼少期、食事を残すのが許されなかったので絶対食べねばという強迫観念から嫌いな物への嫌悪感が増大し、大人になった今も嫌いなままでいる。保育園の保健師さんが、「私なんて小さい時は卵しか食べなかったんです。本当に。それでもこんな風に育ったので好き嫌いなんて矯正しなくていいです」と言っていた。極端だが正論かもしれない。ちなみに今は鮭フレークブームだが、塩分がちょっと心配。


まだ漏らすこともあるがトイレがうまくなってきた。自分からトイレに行きたいと言ってくれるようになった。ゆるいアンパンマンブリーフしか持ってなかったので、ちょっとボクサーパンツ風のかっこいいブリーフを買ってあげたら急に男になった気がした。似合っていたがもう子供でないのだなと少し寂しくもなった。


珍しく人と食事する機会が多い週だった。普段何かするのに一人で平気だし、むしろ映画や買い物は一人で行動したい派なのだが、食事、特に外食に関しては一人だととても寂しい。一人で外食できないこともないが、チェーンの珈琲ショップで一気に食べて店を退出するので味わった気がしない。カウンター席でお酒があるとまだ大丈夫だが、例えば空間にゆとりのあるおしゃれなカフェとか、なんだか落ち着かずすぐに出てしまう。でも一緒に食べる人がいると嬉しいし楽しい。そして飲み込むように食べなくていいので美味しい。会社のランチも普段は席で急いで食べるが、人と食べると話もできて全然違う。業務中は話せない会社に対する違和感や意見交換もできる。でも飲み会はやや苦手。人数の問題かもしれない。多くて四人までがいい。食べログで行きたい店をリスト管理(そんな機能があるとは!)している友人にわぁすごいと驚いたほど最近食や飲食店への興味が薄れていた(空腹を満たせれば何でもOKの意識だった)が、好きな人と食べるごはんって美味しいのだなと改めて実感した。サイと食べるごはんも嬉しい。美味しいねってお互いに笑いながら食べるが調子に乗ってサイに話しかけていると「たべてるときはおはなししちゃいけません!」と保育園の先生を真似て注意される。


観たい映画がたくさんある。が、残念ながら観に行く時間がない。『素敵なダイナマイトスキャンダル』『シェイプ・オブ・ウォーター』『15時17分、パリ行き』『彼の見つめる先に』。良い作品や好きな監督の作品はDVDでなくちゃんと映画館で観るべきだと誰か言っていたが実現できないのがもどかしい。最近『シングストリート』をTSUTAYAで借りた。公開当時観れなくて悲しかった。ネット配信に未だに慣れないので結局TSUTAYAみたいな実店舗でパッケージを見て選ぶ方が私に合っている。映画ならまだいいが、絵画の展覧会などは見逃したら終わりだから悲しい。ルドン展、観たいのに一体いつ行けるだろう。5月までだからと悠長にしていたら終わってしまう。絵は後で図録を見ても生で見た時の感動は得られない。小学校2年生の時、展覧会で本物の「ピアノを弾く二人の少女」を観て衝撃を受けてからずっとルノワールの絵が好きだ。学校の宿題として提出するキャンパスノートにその感動を綴ったのを覚えている。だからサイにも年齢でまだ早いと制限せず色んな絵や芸術を見せてあげたい。生で観るって何よりもすごいことだと思うから。老後は絶対映画館&美術館に通い詰める婆になるぞ、足腰鍛えなくては、の気持ち。


例の事件(土地の名前がついた事件名を書いているだけで気分が悪くなったので辞めた)に対し、「殺人が犯人にとって疑似的な生きがいになっていた」とコメントしていた専門家がいた(犯人はヒモになりたかったと言っていたが全く信じられない)が、もしその通りだとしたら他人の生を繰り返し奪うことで生き伸ばすとはこれ以上ないほど自己中心的で悲しい思考だ。殺人という行為が、自己中心的快楽を満たす日常の延長か何かのように解釈されていたのかもしれない。理解の範囲を超えている。生きがい、とは。


生きがいも負に打ち勝つための何かも、それを求める時、絶対に人への依存であってはいけないと改めて考えた。そうなるのを自分が一番恐れている。例の事件のように殺人まで結びつかなくとも、対象が人である時点で本当の救済は得られない。あるどうしようもない鬱憤や手に負えない感情があったとして、その救済を人(サイも含めて)に求めるのではなく、生産性の有無に関わらず自分が満足いく形で創造や行動に変換するのがベストなのかなと思う。例えば絵を描いたり楽器を演奏して手や身体を動かすとか。例えばどこかに意思を持って出かけるとか。例えば仕事頑張るとか。変換させる何か。それを必死に遂行すること。「あの死にたみを 朝に変えたり 金に変えたり 髪を染めたり」という大森さんの好きな歌詞(『地球最後のふたりfeat. DAOKO』より)を度々思い出す。絶対勝つから待ってろよ、といつも自分自身に言い聞かせている。