カニ日記

息子の成長と日々の記録

描くことは生きること

3月25日(月)
帰宅してごはんを食べようとしたら、サイが棚に置いてあるZくんのプレゼントを開けたいと言い出した。プレゼントだからダメだよ、と言うとわっと泣きだして、それからわんわん大声で泣き叫ぶ。あれはZくんのだから開けられないよと言い聞かせたり、今度の休みに同じものを買いに行こうと宥めても一向に聞いてくれない。「サイくんいまおんなじのがほしいの!!」「あれをあけたいの!!」と顔をゆがめて鼓膜が破れそうなほど大きな声で叫びながら涙を流し続ける。抱きしめても、何をしてもダメで途方に暮れる。怒らないように気をつけて真剣に話しても理解してもらえず、どうしたらよいのかわからなかった。結局どうしようもなく、最後は放っておいてサイが泣き叫ぶ中、私だけ黙々と晩御飯を食べた。途中でヤマトからAmazonで頼んだサイの靴と読書灯が届き、読書灯のスイッチに興味を示してようやく泣き止んだ。それからはもう泣かなかった。こんなに泣き続けたのは久しぶりだったのでさすがに困ってしまった。

仮面ライダーフォーゼを観てお風呂に入って、サイと二人で倒れるように眠る。


3月26日(火)
お気に入りの春のコートを職場に着て行きたくなくて、まだ冬のコートを着ている。が、さすがに暑い。今日はアボガド・ハム・オムレツのサンドイッチ。

退社後、肌寒いが確かに春の空気を感じて、一体自分はいつまで冬のコートを着ているのかとさすがに思った。駅を出たところの広場のような公園のような場所の桜は日光がよく当たるのか他の場所より早く咲く。もう7分咲きくらい。スーツを着たおじさんがコンビニの揚げ物を片手に、もう片方の手に缶ビールを持ってちょっと疲れた表情で宵の空に浮かぶ桜を見つめていた。お花見の形は色々あると思うが、毎年一人で立ったままぼんやり桜を見上げている人を見かけるとぐっと胸にこみあげるものがある。花と向き合う時の静寂や孤独に愛おしさを感じる。私も缶ビールを飲みつつゆっくり花を眺めたいところだったが、お迎えに行かねばならないので、自転車でさっと通り過ぎた。

冷蔵庫にあったのは、豚肉の残り、キャベツ、たまねぎ。サイが嫌がらないようにキャベツとレンジで柔らかくした玉ねぎ、その上に焼肉のたれに漬けた肉を載せ蓋をして弱火で蒸し焼きにしたら思いの他美味しくできた。肉も直接焼かないと柔らかかった。新玉ねぎだともっとおいしいかもしれない。いつも嫌がって玉ねぎを一切食べてくれないサイがよく食べてくれたので嬉しかった。食べてくれると料理する意欲も湧く。サイがなぜか最近関心があるらしいニンニンジャーを観ている間に食器洗い、洗濯。

ひと段落してAmazonで買ったマエケンのCDをパソコンに取り込もうとしたら「サイくんやる!」とCDを入れたがる。変身ベルトのように、何かを別の何かにセットしたり、はめる動作がサイは大好き。「ここに音楽が入ってるから、裏側は触っちゃいけないよ」とディスクの裏側を見せて言うと「ここにはいってるの?」と不思議そうにしていた。それから一緒に聴いた。『ファックミー』の最後に入っている、「牛」という牛の声だけ収録した歌のない曲をサイは面白がってげらげら笑っていた。

お風呂に入って就寝。昨日届いた読書灯で本を読もうと思っていたが、布団に入った瞬間眠っていた。サイにもいつそれ使うの?もう使った?いやまだ…とやたらと気にされた読書灯、いつ出番がくるだろうか。


3月27日(水)快晴、絶好の散歩日和
いよいよ春の気候なので、観念してスプリングコートをまとう。家の前の桜の花びらが歩道に落ちていて、帰りに拾おうとサイと約束する。昼はハムアボガドオムレツのサンドイッチ。帰りは料理する気がおきず、ついでにお酒も飲みたかったので、いつもの中華屋で食べて帰ることにした。サイは「チャーハンもたべれるからこっちのセットにして」といつもはラーメンだけなのに、ラーメンにチャーハンがついたお子様セットを頼むように言う。私はハイボールと適当なつまみ数品。運ばれてきて、「ねぎだってたべられるよ」とパクパク食べていてすごいねー!と私が驚いていたら数口食べて「やっぱりむり…」と手が止まり、結局残りは私が食べた。最近野菜もよく食べるし、ひどかった偏食が少しおさまってきた気がして嬉しい。家に入る前に歩道を見たら花びらはすっかりきれいになくなっていて、「だれがおそうじしたのかな」とサイは落ち込んでいた。洗い物がないので、アイスを食べながらフォーゼと鎧武を観た。お風呂に入ってから大森さんのラインライブを途中まで観た。サイが聞き取って気になった歌詞の意味を聞かれて、成長を感じた。

深夜、Fさんと電話。なんとなく流れで、過去の恋愛の思い出をお互いに発表した。詩みたいに美しい話を聞いた。嫌だとか全然思わない。むしろ、聞いているうちにFさんのことが好きだった女の子に対して自分が同情なのか恋愛感情なのかよくわからない淡い想いさえ抱いているような気がした。私は話せるきれいな思い出なんて少ないなと思いつつ、高校生の時片想いしていた人と数年後同窓会で再会した話をした。「〇〇さん、すてきな人だよね」と自分のことを急に言われたので、「すごい性格悪いよ」と返したらそれでもいいよと言われた。Fさんは映画の台詞みたいな言葉をときどき真面目に言う。そういうところが私は好きだ。「過去は過去だから追及しようと思わない。それより今が大事かな。」と言っていた。そのとおりだ。


3月28日(木)晴れ時々曇り
掃除されてしまう前に拾おうと、朝家を出て保育園に行く前に落ちている桜を拾った。花びらが揃っていて汚れのないきれいな花弁。「それ、女の子にあげるといいよ」と私が言うと「え、なんで?」と不思議そうにしていた。結局自転車に乗っているうちに花びらが吹き飛んでしまい、悲しんだサイは残った花を私のかばんに突っ込んだ。

お迎え。サイが0歳児の時に担任だったO先生が新年度から別の保育園に行くので、挨拶をした。サイの担任をしてもらっていた時はO先生は保育士になって初めての年で、よくベテランの先生に叱られていたのを目にした。「0歳の時からずっとありがとうございました」と言うと、「あの時は小っちゃかったサイくんが…」とか「あの時は私もまだ保育士になったばかりで…」などとお互いに感傷に浸っていた。あれから4年、あの時寝がえりもできなかったサイはこんなに大きくなった。いつも怯えたような表情をしていた0先生も今では自信に満ちた顔で子ども達を見ている。目が大きくてアイドルみたいな先生。次の場所でもきっとうまくいきますように、と親なのか友達なのかよくわからない目線で先生のことを想った。

Yくんがリュウソウジャーのリュウソウル(おそらく変身の時に使う騎士から恐竜に変形する手のひらサイズのアイテム)を持っていて、サイは羨ましそうに眺めていた。Yくんはうちと同じように一人っ子で、何でも買ってもらえるのか毎日違う玩具を手に通園している。欲しいものはあまり我慢させず買い与えているようだ。人の子育てのことをとやかく言いたくないが、うちは同じようにはできない。でもサイはYくんが持っていると「Yくんがもってたからサイくんもほしい!」といつも言う。困る。あれもほしがるだろうなと先回りして読んで、Yくんのお母さんにどこに売っているか聞いたらコンビニで買えるという。それほど高くなさそうだったので、「サイくんもあれほしい?」と聞くと目を輝かせていた。話に聞いたとおりコンビニに売っていた。サイは嬉しかったらしく、家に帰っても寝る前もずっとそれで遊んでいた。大事にしてほしい。晩ごはんは豚バラと大根の甘辛煮。大根を酸っぱいと言ってあまり食べてくれなかった。

なかなか眠れず、rajikoでマエケンのラジオを聴いたら、ここ最近自分に寄り添ってくれていた『3月のブルース』を歌ってくれて嬉しかった。前野さん自ら「ボソ語り」と呼ぶ、耳元で囁くように歌う弾き語りを深夜、布団にくるまりながら聴くのはとても心地よい。子守歌みたい。静まりかえった部屋でたった一人(正確にはサイが横で寝ているがお互い寝ている時は一人になれる)でこれを聴いていると歌声がじわじわと身体の先端まで染み渡り、毒素がふーっと抜けていく。やっぱりラジオっていいな。歌詞が気になり、CDを引っ張り出して歌詞カードをぱらぱらめくっていたら睡魔が訪れてそのまま寝てしまっていた。


3月29日(金)どんより曇り空 寒い
家を出て自転車に乗る前、サイが桜を拾いたそうにしていたので今日もきれいなやつを二つ拾った。サイは私のコートのポケットに入れようとしたが潰れるといけないので、マンションの一階の他人の家の窓枠にそっと置いた。「帰りまでここにいてもらおうね」と私が言うとサイは桜に「まっててね」と語りかけた。

お迎え。保育園のクラスが終わる日。新しいクラスでも今の三人の担任の先生のうち二人がそのまま持ち上がるので特に不安はない。それでも同じクラスの子が何人か転園する。昨日挨拶した0先生にもう一度挨拶した。サイは挨拶の途中でぴゅーっとどこかへ行ってしまった。こういう時、わりと照れるタイプなのかもしれない。金曜日だからか、一年の最後の日だからか、園庭はいつも以上に騒がしかった。家に入る前に朝桜を置いた窓枠を見たら二つともどこかへ飛んでなくなっていた。二人でもう一度拾う。

今日もドラえもんとしんちゃんはやってない。ビールを飲みながらしんちゃんを見てげらげら笑わないと週末がやってくる感じがどうもしない。


3月30日(土)
昼からZくんの家で誕生日会。行く前、プレゼントに添えるカードを作ろうと誘うと最初は乗り気でなかったが、Zくんの似顔絵を描いてくれたのでそれを飛び出すカード風にした。「Zくんだいすき、またあそうぼうね」と書けと指示されたので、言われるまま書いた。サイはもうプレゼントに執着していなかった。これは贈るものだと理解したらしい。えらい。

花屋に寄って花束を買ってからZくんの家へ。とても広くておしゃれでセンスが良く、入った瞬間驚いた。古いマンションの最上階を改装したらしい。高そうな最新のおもちゃがたくさんあり、Zくんの一人部屋もあった。私たちの他には、同じクラスのサイとも仲が良いHくんとお父さん、Zくんのおじいちゃん(外国人)・おばあちゃん、お父さんの仕事の同僚らしき人がいた。どうやらごく身内の誕生日会に呼んでもらったらしい。おじいちゃんが持ってきた外国の伝統的な甘いお菓子をおいしいと言ったらどうぞもっと食べてくださいと勧められてしまい私はそればかり食べていた。特に会話が盛り上がるわけではないので、私は子どもと遊んだりZくんのお母さんと話していた。サイはきれいな空間に目新しい玩具が山のようにあるという夢のような状況に興奮状態だった。Zくんのお父さんがサイとHくんにもプレゼントを用意してくれていて、それがサイからのプレゼントと被っていた。種類違いでシンカリオンのまったく同じ玩具だった。こういうことはたまにあるのだが、好みや選択が同じだったということは喜ばしいことなのかもしれない。サイは欲しいとあれだけ泣いていたものが手に入り満足そうだった。

話を聞いていたらZくんのお父さんがどこの国の人かようやくわかった。どこだろうがイケメンだし気が利く。自分はアルコールを飲まないのに常に私たちのビールのおかわりを気にしてくれていた。父親としてもすばらしい。Zくんが何か言っていてもすぐに察する。サイにも優しくしてくれて、サイはよく懐いていた。もう少し話してみたかったが自分のたどたどしい英語が流暢に英語を話す日本人の同僚にバレるのが恥ずかしく、なんだかあまり話せなかった。Zくんのお母さんも大らかで優しく、嫌味なところが一切ない。私はこの人が好きだなと話しながら思っていた。また遊んでください、今度はうちに泊まりに来てください、と言われて嬉しかった。

サイの夕飯まで御馳走になってすっかり暗くなってから帰る。私は帰ってビールを飲みつつ帰りに買った総菜を食べながら、生活にはある程度の余裕が必要だ…この家はあの家に比べてなんて汚くて狭いんだろう…と考えていた。自分が選んだとわかってはいても少し心が重くなった。今より良いところに住みたい、少なくともサイに部屋を作ってあげたい、それにはもっと稼がないと、ああどうすれば…頭の中がぐるぐるしていた。


3月31日(土)
サイは面会。その間に私は用事を済ませてから、渋谷のヴィレジヴァンガードでさいあくななちゃんのライブペインティングを観た。ななちゃんはこちらに背を向け、ディスプレイの狭い空間に立ってキャンバスに向かっていた。小さな細い身体で、絵具やパステル、水、ガムテープ、、色々な画材を使って筆だけでなく手もつかい全身で描いていた。完成かと思ったら大きな女の子の顔の上に切り離した白いスケッチブックを何枚も張り付けてまったく別の絵を描いたり、予想がつかなかった。「ライブペインティング」という名のとおり、まさに音楽のライブのようだった。何か音楽を聴いているのか、ななちゃんの身体は描きながらリズムを取って上下したり、走る前のマラソン選手のように助走運動しているようにも見えて、「描く」とは芸術であると同時に人が動いて初めて成立する身体運動なのだということを気づかされた。「生きることはそれ自体が芸術である」という大学時代の教授の言葉を思い出した。どんな芸術作品でも人の手がつくっている。それは呼吸したり食事したり、生活の延長にある、と確か教授は言っていた。最後にななちゃんは「生きる」という文字を大きく描いてライブは終了し、振り向いて少しはにかんで、オーディエンスに手をふったりお辞儀をして立ち去った。それからオーディエンス側に来てくれて、端にいた私がななちゃんと目が合うと一番最初に話しかけてくれたが胸がいっぱいでうまく言葉にならなかった。「今日はあの子、連れてきてないんだね」と悲しそうに言われ、放心状態だった私はすぐ何のことか理解できなかったが、あとで考えたらサイがいないことを気にしてくれていたのだと思う。サイにもいつか見せてあげたいな。

狭い居間のどこからもよく見える場所に額に入れたさいあくななちゃんの絵を飾っている。サイと行った個展でサイがこれがいいと言って買った緑色の髪をした女の子の絵。いつも生活を見守ってもらっている。サイと私の生活。私たちの時に楽しく時に怠惰な積み重ねの毎日がななちゃんの絵につながっているようで、生活が芸術とつながっているようで、いつも力強い気持ちになる。